謹啓、新しい年を迎え、みなさまにはますますご健勝にて日々お過ごしのことと存じます。
また、平生よりお寺の護寺・運営に際し、有縁のみなさまの旧年来のご理解 とご協力に深く感謝申し上げますとともに、本年も変わらぬご厚誼の程、お願い申し上げます。
さて、旧年中は人類史上類を見ない新型コロナウィルス感染拡大に全世界がさいなまれ、医療従事者のみなさまをはじめ、大変な一年でありました。有縁のみなさまも大変ご苦労をなされたことでしょう。
同時に「己とは?」について、深くわが身を省みて、改めて真摯に向き合う大切な時間だったのではないでしょうか?
今年はどんな年になるのでしょう。
二人の子供達もみなさまのおかげでここまでお育てをいただき、それぞれが各々道を外れることもなく、それぞれ自分で決めた自分の道を 歩んでくれています。親として坊守さんとともに大変うれしく思いますし、誇らしくも思います。子供達にはこれからも、世間の価値観に振り回され自分を見失うことなく自らが選び、己が信じた道を、自分の足で一歩ずつ歩んでもらいたいと思います。もちろん独り立ちするまでは、親としてできる限りのフォローはしてやりたいと思います。
先日、長男にはあと20年は・・・といわれました。(*゜∀゜*) 勘定すると、70歳が超えてきます。「お年玉はいつまであるの?」と聞いたら、「死ぬまでだよ」だそうです。(*゜∀゜*)
でもそのことが私たち夫婦の人生の〃モチベーション・生きがい〃なのだと思います。このことを〃活かされている〃というのでしょう。
振り返れば、わたしは親らしいことは何一つできぬままで、子供達には本当に申し訳なく思っています。もちろん本人たちの頑張りもそうですが、坊守さんが本当によく頑張ってくれました。西家も正福寺も今があるのは坊守さんのおかげです。(*゜∀゜*)子供達とともに言葉では言い尽くせないくらい感謝しています。
子育てにもある程度のめどがついたので、公私ともに目一杯頑張ってくれた坊守さんには少しでも長生きしてもらいたいですし、、これからは少しゆっくりとした自分のための時間を過ごしてもらいたいと考えています。
わたしは坊守さんの理解のもと?好き放題・自由にさせてもらっていましたが家庭人としては落第生で、坊守さんは自分のための自由な時間なんてほとんどなかったので・・坊守さん、4月になったらどっか行きますか?(海外旅行は厳しいけど・・・(*゜∀゜*))
煩悩に馳せ使われて走り回ってまた年新た(浅田 正作)
さて、表題の文章は納骨堂入り口の掲示版にも掲げてありますが、京都にある光華女子学園のホームページより引用したものです。
*「煩悩」とは私たちの身や心を煩わせ、悩ませるはたらきのこと。 【唯信証文意・{3}注釈版聖典707頁・現代語訳19頁】
*煩悩によって業(行為・結果を引き起こすはたらき)を起こし、苦法(人生は苦なり・思い通りにはならない「お釈迦樣の言葉」)をうけて迷いの世界を生まれ変わり死に変わりしてしまう。そのために煩悩を滅した悟りの境地に至ること(極楽往生)が仏教における究極的な実践目的とされる。(浄土真宗辞典181頁)解脱という意味でもあると思います。その目標は無量寿(二度と生まれ変わることのない、永遠のいのち)を得ること。
*煩悩は「三毒の煩悩・(十悪の一)」という形で表されます。
★貪欲・瞋恚・愚痴のことである。(衆生を害する根元である。)
*十悪・・・10種の悪い行いのこと
@殺生(生きものを殺す)
A偸盗(盗み)
B邪淫(よこしまな)性の交わり)
C妄語(うそ・いつわり)
D両舌(人に仲たがいさせる言葉)
E悪口(ののしりの言葉)
F綺語(まことのない言葉)
G貪欲(貪りのこころ・物欲や金銭欲や名誉欲などのさまざまな欲望のこと)
H瞋恚(すぐ腹を立てるこころで、自分に気に入らないものに対して憎み怒ること)
I愚痴(道理に無知になること。物事を正しく判断できない愚かさ)
*すべては自分自身が引き起こしているこころの作用なのだと思います。どこまでも欲望をふくらませ、思うようにならないと、周りの人に怒りをぶちまけている姿は、まさに親鸞聖人がお示しくださった「煩悩具足の凡夫」といえると思います。煩悩具足の凡夫とはつまりはわたし自身のことでありました。
*【大谷大学ホームページ・きょうのことば・2007・8月】より引用
「一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く」
★貪愛の心(自分に都合の合うものを際限なく貪り求めようとする心)
★善心(私たち一人一人のうちにある本当に自分らしく生きたいという思い。私たち誰もがその思いをもっています。ところがその思いを覆い隠し、見失わせるものが他ならぬ自らの「貪愛のこころ」であると、親鸞聖人はおっしゃっています。
★瞋憎の心・・・自分の都合の合わないものに対して瞋りや憎しみの感情を抱いていくこと
★法財・・自分という存在を表す言葉。
*すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。
【教行信証・信巻【28】・注釈版聖典235頁・現代語訳203頁】
*本当に自分らしく生きるということは、都合のよい生ものだけを求める生き方からは決して開かれてこないと思います。自分のうちには「貪愛のこころ」「瞋憎のこころ」が常にわきおこっています。その事実から目をそらさず、それが何によって起こるのか率直に見つめれば、そこに都合のよいものだけを追い求める自分の生き方を翻して いこうとするときに、初めて自分らしく生きる道が開かれてくるのです。
*悪をなさば 自ら汚れ なさざれば 自ら浄まる 浄・不浄は 自己による 他から浄められるものではない(釋尊)【僧侶必携77】
*金貯めて 何をするとぞ思いしに 煩悩ふやすことばかり(僧侶必携)
*瀬戸内 寂聴さん
悩みから救われるにはどうしたらいいのでしょうという質問をよく受けます。救われるか救われないかは、自分の心の問題です。とらわれない心(煩悩を少なくする)になれば救われます。
*自己の分限を知れ 背伸びすると かならずつかれる
*浅田正作さんではありませんが、煩悩に馳せ使われて自分自身を見失うこと(地獄や餓鬼や畜生の生き方)なく、人間らしく川の流れにみをませるがごとく、日々「自然体」ですごして行きたいと思います。(僧侶必携193)
★煩悩具足の凡夫【歎異抄{3}注釈版聖典834頁・現代語訳8頁】
あらゆる煩悩を身にそなえているわたくしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。(他宗との違い)
阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころは、わたしどものような煩悩具足の悪人をすくい取って仏にするためなのです。そのようなわたしこそが救いの目当てであると、救いの手を差し伸べてくださる阿弥陀さまの有り難さ、改めて感じます。
*本年も変わらぬご指導・ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げ、正月の挨拶とさせていただきます。
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